ディレクターは制作が開始した現場では最終決定権をもつ。だが、制作の初期段階や制作終了後に決定権を持つのは別のひと。
たとえば、商品を企画するなら、(1)マーケティングの調査し、(2)パッケージなどの形式と価格を検討し、(3)必要なら投資家を見つけ、(4)工場を手配し、(5)発売スケジュールにあわせ、卸先を手配、(6)広告宣伝の企画と手配、などとモノを作る前と後にもずいぶんと多様な業務があるものだ。
ディレクターをモノを作る工場の長に例えるなら、プロデューサーは営業マンであり、法務であり、社長であるといえるだろう。前述の多様な業務を一手に引き受けなければならない。
必要だと判断すれば役員や投資家をはじめとして、オトナの社会をつくっている偉い有識者を集める。大抵はコンテンツ制作など知らないメンバーになる。けれども、プロデューサーは、そのような有識者の面々とも気持ちよい関係を築き、「指導はするが最終決定権はコンテンツ制作者にある」というベストバランスを用意してくれる。
ちなみにこれは「そんな人が居たらいいなぁ」という希望の話ではない。実在の人物のことを述べている。
私が「我はディレクターなり!」と宣言し任務に専念できるのも、こういうプロデューサーとの役割分担があればこそだ。モノを作ることに関してはディレクターの意見が尊重される。反面、社会的な動向やオトナ的な調整に関しては、プロデューサーの判断を疑うことはない。
当然、お互いの役割は果たされていることが前提である。いちいちそこに疑問をはさむ必要は無い。それは信頼関係でもあるが権限委譲の問題でもあると思う。アニメーターに制作を依頼しておきながら、「この目パチは必要ないのでは?」などと言うレベルから疑問をあげていては制作が進まないのと同じことである。
幸いにも私にはいい関係のプロデューサーが2名いる。とはいえ、コンテンツ制作の度に「オトナ社会との調整」が必要なわけではない。書籍などスタイルが定着しているコンテンツ制作の時などでは、プロデューサーの出馬はいらない。けれども、ムツカシイテーマや規模の大きめの制作になると役割を理解しているプロデューサーの有無は全体の品質に大きく関わる。それどころか、有識者間で意見が割れたりすると、制作自体が破綻しかねない。
これは結構重要なことだと思うのだが、まだまだ浸透していないなぁと感じることも多い。
最近、いままで手がけてきた製品を指差し「こういうのを作ってください」と言われることがある。それは確かに私が作った製品だ。けれど、私だけで作ったのではない。それが成功しているように見えるのは、プロデューサーとディレクターと多くのスタッフとの連合軍だからなのだ。同じチームで取り組むなら必ずそれ以上のモノを作ると約束しよう。けれど、誰か欠けたなら同じモノですら作れない。
、、、と、私は思う。